アルツハイマー病(Alzheimer disease)
2006年2月
東京都精神医学総合研究所 秋山治彦
第1章 アルツハイマー病の歴史
 今から約100年前,1906年にドイツの学会でアロイス・アルツハイマーが,進行性の記憶障害や妄想など認知症を起こして死亡した55歳の女性について報告しました.その後,同じような症状を示す患者さんについての報告が相次ぎ,1910年にはアルツハイマーの師であるクレペリンが,この疾患を「アルツハイマー病」と名付けることになります.アルツハイマーは1911年にアルツハイマー病の詳しい神経病理学的所見を論文にまとめて発表しています.その中で彼は,アルツハイマー病の特徴として,(1)大脳の萎縮と,その原因として大脳皮質の神経細胞が減少すること,(2)老人斑と呼ばれるシミのような異常構造が多発すること,(3)神経細胞の中に繊維状の塊(神経原線維変化と呼ばれます)が蓄積すること,を指摘しました.当時すでに,高齢になってから発病する老年認知症(Senile Demenz)という疾患が知られており,「老人斑」は老年認知症の患者さんの脳で見出されていました.しかしクレペリンは,アルツハイマーが報告した患者さんが初老期に発病したことを重視して,老年認知症とは別の疾患である,と考えたわけです.
 その後長い間,アルツハイマー病を,初老期発症の認知症疾患として高齢発症の老年認知症とは区別する考え方が主流になっていました.実際,老年認知症では,アルツハイマー病ほどたくさんの神経原線維変化が出現することは少なく,脳の萎縮も軽くて,それに対応するように病気の進行が遅く,症状も軽い傾向があります.しかし,この両者の違いは,臨床的にも病理学的にも程度の差(量的な違い)であって,質的に違うものではない,と言うこともできます.特に1970年代以降は,両者を区別せずに「アルツハイマー病」とする考え方が主流になり,これは結果的に,病因の解明を進める研究を大きく促進することになりました.まず,圧倒的に患者数が多い高齢発症の老年認知症をアルツハイマー病に加えることで,多数の研究者が多数例のアルツハイマー病標本を解析できるようになりました.さらに,両者に共通の病変がアルツハイマー病に本質的なものである,という考え方に立つことで,より的を絞った研究が行われるようになったのです.
 脳の病気のうち,外傷や感染症,脳血管障害などの明らかな原因が見当たらないのに神経細胞がだんだん死滅していってしまう病気を,「神経変性疾患」と呼びます.神経変性疾患研究の基盤は,1950年代までは神経解剖学の知識をもとにして顕微鏡で脳を観察する病理組織学でした.1960〜70年代になると,脳の中で神経細胞同士が情報を伝えあうために使われる神経伝達物質という微量の物質(ドーパミンやアセチルコリンは代表的な神経伝達物質です)について研究が進みます.その結果,特にパーキンソン病の治療が(対症療法ではありますが)大きく進歩しました.同様の図式をアルツハイマー病に当てはめることで得られた成果が,今日広く行われている,脳のアセチルコリンを増加させる薬剤の投与です.しかし,もっと大きな進歩が,1984年のグレンナー博士によるアミロイドβ蛋白質(短くAβと呼ばれます)の発見により得られることになりました.これを境にアルツハイマー病の病理学研究の中心は,生化学や分子生物学,分子遺伝学へと移行することになります.

第2章 アルツハイマー病の組織病理学
 アルツハイマー病の病理学的特徴は,アロイス・アルツハイマーが指摘した通り,脳萎縮,老人斑,神経原線維変化です.脳の萎縮は大脳の広い範囲にわたっていて,通常1200〜1400gある脳の重さは,進行した患者さんでは1000g以下になります.この写真(図1)は亡くなられたアルツハイマー病患者さんの大脳の断面(図1.下)ですが,正常高齢者(図1.上)に比べてとても小さくなっているのがわかります.脳の萎縮は神経細胞が死滅し,それに伴いその神経細胞が木の枝や根のように伸ばしていた多数の神経突起が失われた結果生じます.亡くなった患者さんの脳から病理組織標本を作って顕微鏡で観察すると,神経細胞を見ることができます(図2).正常な大脳皮質にはたくさんの神経細胞がありますが(図2.左),アルツハイマー病の患者さん(図2.右)では神経細胞が少なくなり,かわりに小さな「グリア細胞」と呼ばれる細胞の割合が高まっています.
 老人斑は病理組織標本を,銀を使う方法で染色したときに濃く着色する,様々な大きさの(直径数十μmから100μmくらいまでが多い)斑状の構造です(図3).ある程度進行した患者さんでは,この図のように大脳皮質の広い範囲にたくさんの老人斑が出現しています.次の図(図4)は,顕微鏡の倍率を上げて拡大して見ています.同じように銀を使う染色でも,染色の方法を変えると,老人斑が複数の構成要素からなることがわかります.図4.左ではβアミロイドと呼ばれる異常な物質の沈着が黒く染色されています.図4.右では一部腫大した繊維状の構造が集簇しているのがわかります.細い針金のようなものは神経細胞の突起で,それが老人斑の部位では異常にふくらんで紫色に見えています.腫大神経突起あるいは変性神経突起などと呼ばれます.βアミロイドを電子顕微鏡で拡大して観察すると,細い繊維のような構造をしているのがわかります(図5).なお,このβアミロイドという物質は,老人斑だけではなく,脳の血管にもたまる場合があります.これをアミロイド・アンギオパチーと呼びます.アミロイド・アンギオパチーはアルツハイマー病の患者さんにたくさんできますが,アルツハイマー病以外の高齢者にも時々見られます.したがって,老人斑ほどアルツハイマー病に特徴的ではありません.この「アミロイド」という言葉は,組織標本上で一定の性質を示す物質の総称です.アミロイドは,組織標本をコンゴーレッドという色素で染色した時に,普通の顕微鏡ではピンク色に染まり,同じ標本を偏光顕微鏡で観察すると光って見えて,かつ偏光フィルターの角度を変えることで黄緑色からオレンジ色に色が変化するもの,と定義されています(図6).アミロイドβ蛋白質(Aβ)は,この老人斑やアミロイド・アンギオパチーに蓄積するβアミロイドの主要成分です.Aβは,脳でAβ前駆体蛋白質(APPと呼びます)というもっと大きな蛋白質として作られ,その一部が切り取られることで生成されます.
 アロイス・アルツハイマーが指摘したもうひとつの病変は神経原線維変化です.やはり銀を使う染色で濃く着色しますが(図7),老人斑が細胞の外にできるのに対して,神経原線維変化は神経細胞や神経細胞の突起の中にできるひも状の異常構造です.ところで「線維」という漢字ですが,本当は「繊維」が正しいのだと思います.しかし理由はわかりませんが,神経原線維変化という言葉の時は歴史的にずっと「線維」が使われてきましたので,ここでも「神経原線維変化」と書くことにします.神経原線維変化も電子顕微鏡で観察すると細い繊維が束になったような構造をしています(図8).ただ,神経原線維変化の繊維は一定の間隔で"くびれ"があり,あたかも2本の細い繊維を捻ってあるかのように見えます.そこで専門用語ではpaired helical filament (PHF)と呼ぶこともあります.老年認知症がアルツハイマー病に含まれる病気であるかどうかは,前述したように,病変の量的な違い(程度の差)をどう考えるかによって違ってきます.初老期に発症し,進行が早くて数年の経過で重症化するアルツハイマー病では,大脳の広い範囲に多数の神経原線維変化ができます.一方,高齢発症で進行が遅い老年認知症では,何年も経過して亡くなった後でも,脳の側頭葉という部位,とりわけその内側部分(海馬と呼ばれている領域が中心です)以外には,それ程たくさんの神経原線維変化は認められないことがよくあります.
 いずれにしましても,アルツハイマー病は,このように神経病理学的に特徴的な変化を多数伴っているのでその病理診断は比較的明確に下すことができます.一方,臨床診断,すなわち生前に診察や検査を通じてアルツハイマー病かどうかを決めるのは必ずしも容易ではありません.区別しなくてはいけない他の神経変性疾患の中でも,特にレヴィー小体型認知症は,脳の病理変化が重複することもあって,生前に鑑別することが難しい場合がしばしばです.また,脳梗塞があって認知症を発症した患者さんが脳血管障害性認知症と診断されていて,亡くなられた後,病理解剖を行ったら認知症の主な原因はむしろアルツハイマー病だった,ということも少なくありません.脳の病気は,まだまだ生前診断だけでは不十分で,死後の剖検〜病理学的診断による確認が必要な領域である,とも言えます.

第3章 アセチルコリンの減少
 1970年代の終わり頃,アルツハイマー病の大脳皮質で,神経伝達物質のひとつであるアセチルコリンが著しく減少していることが明らかになりました.大脳皮質のアセチルコリンは,大部分が脳の底面に近い場所にあるマイネルト核と呼ばれる小さな領域の神経細胞で作られます.このマイネルト核は,アルツハイマー病では比較的早い時期から神経原線維変化ができ,神経細胞が減少してしまうために,アルツハイマー病の脳では,ほかの神経伝達物質よりも早くアセチルコリンが減ってしまうわけです.神経伝達物質にはそれを作る酵素と分解する酵素があります.脳は一度使用した神経伝達物質の一部はリサイクルして再利用しますが,残りは分解します.そこでアセチルコリンの分解酵素(アセチルコリン・エステラーゼと言います)の働きを抑えることでアセチルコリンが分解されにくくして,アセチルコリンの量を回復させる薬剤が開発されました.これが現在アルツハイマー病の患者さんに投与されている薬です.

第4章 家族性アルツハイマー病の遺伝子
 アルツハイマー病の数%は家族性に発病します.それ以外のアルツハイマー病の患者さんでは明らかな遺伝は認められません.家族性アルツハイマー病を引き起こす遺伝子はひとつではなく,家系により異なる遺伝子の異常によって,同じアルツハイマー病という病気が起こります.今日までに3つの遺伝子が発見されていますが,それらの遺伝子に異常がない家族性アルツハイマー病の家系がまだたくさんありますので,将来,アルツハイマー病の遺伝子の種類はもっと増えると考えられます.
 アルツハイマー病遺伝子の最初の発見は1987年で,このとき発見されたのは,老人斑βアミロイドの主要成分であるAβの前駆体蛋白質,APPの遺伝子異常でした.次いで1995年に,ふたつの遺伝子が相次いで発見されました.いずれもそれまで知られていなかった遺伝子で,しかも両者はDNAの配列がよく似ている(共通部分が多い)ため,プレセニリン1,プレセニリン2と名づけられました.アロイス・アルツハイマーが最初に報告したアルツハイマー病患者が初老期発症だったことは前述しましたが,そのため初老期認知症(presenile dementia)と呼ばれることがあります.このpresenileという言葉からpresenilinという名前が考案されたのです.なお,ヒトの染色体は全部で23対ありますが,APPは第21番目,プレセニリン1は第14番目,プレセニリン2は第1番目の染色体上にあります.

第5章 アポリポ蛋白質E
 アルツハイマー病の直接の原因となる遺伝子ではありませんが,アルツハイマー病になりやすくなる遺伝素因がひとつ知られています.血液中でコレステロールなどの脂質を運搬するアポリポ蛋白質のひとつ,アポリポ蛋白質E(ApoE)の遺伝子多型です.遺伝子多型というのは,病気の原因とはならない遺伝子上のDNA配列の違いで,たとえば血液型も遺伝子多型のひとつです.ApoEにはε2,ε3,ε4の3つの多型が知られています.動物の遺伝子は同じものが2つずつありますので,ヒトはそれぞれε2/ε3,ε3/ε4といったペアでApoEの遺伝子を持っています.一番多いのはε3で,ペアの数で言ってもε3/ε3という人が多数を占めています.このApoEの多型のうち,ε4を持っている人はアルツハイマー病にかかりやすい傾向があります.ε3/ε4よりもε4/ε4の組合せの方が,アルツハイマー病になる危険が高くなります.しかし,これはあくまでも"可能性"の問題です.たとえば,ε4/ε4の方が90歳を超す高齢になってもアルツハイマー病にならない,ということも当然起こります.また,ε3/ε3の方が全人口の中で多数を占めていますので,アルツハイマー病の患者さんの中で一番多いのもε3/ε3の方です.ちなみにアロイス・アルツハイマーが報告した患者さんは,保存されていた脳病理標本を用いて遺伝子解析が行われた結果,ApoEの多型はε3/ε3であったことがわかっています.患者さんが亡くなられた当時は誰もが想像すらできなかった情報が,脳の病理標本をきちんと保管してあったために,100年後に明らかになったわけです.

第6章 老人斑とAβ
 蛋白質はいろいろな種類のアミノ酸が鎖のようにつながってできています.その鎖の片方の端をアミノ末端,もう片方の端をカルボキシル末端と呼びます.Aβはアミノ酸が40個ほどつながってできている蛋白質で,Aβ前駆体蛋白質(APP)の一部が切り取られて作られます.まずβセクレターゼという酵素が,APPを途中でふたつに切断します.そうしてできた2本のうちカルボキシル末端側の断片が,さらにγセクレターゼという酵素で切断された,そのうちのアミノ末端側の断片がAβ,というわけです(図9).なお,APPはAβ部分の中ほどで,αセクレターゼという酵素で切断される場合もあります.この場合は,βセクレターゼは働かず,Aβは生成されません.Aβは脳で常に産生されていますが,正常では分解あるいは除去されて脳にたまることはありません.何らかの異常でAβを取り除ききれなくなり,老人斑として蓄積するのがアルツハイマー病です.
 アルツハイマー病の患者さんの脳にたまったAβを解析すると,カルボキシル末端のアミノ酸の種類が異なる,つまりAPPがγセクレターゼで切断される時に切断部位が少しだけ違っていて,アミノ酸の総数が異なるAβが見つかります.脳で産生されるAβの中で多いのは,アミノ酸40個のAβ40と呼ばれるAβです.一方,患者さんの脳でたまっているAβは,アミノ酸が42個のAβ42の割合が高くなっています.これはAβ42の方がAβ40よりも塊を作り繊維状になって脳に蓄積しやすい性質を持っていることと関係しています.アルツハイマー病の脳を顕微鏡で観察すると,Aβ42の方が広い範囲に沈着していて,その一部にAβ40も沈着しているのがわかります(図10).
 家族性アルツハイマー病の遺伝子のひとつはAPPですが,家系によって異なる複数の部位の遺伝子異常が知られています.ひとつはβセクレターゼがAPPを切断する部位の近くで,この部位の遺伝子異常ではAPPから産生されるAβ全体が(Aβ40もAβ42も)増加します.もうひとつはγセクレターゼがAPPを切断する部位の近くで,この部位の異常ではAβの全体量は変わらず,Aβ40の割合が減り,Aβ42の割合が高まります.ところで,APPの遺伝子は第21番染色体にあるわけですが,ダウン症という先天異常ではこの第21番染色体が正常より1本多く3本あります.その結果,普通は一対(2個)あるAPPの遺伝子が3個に増えます.ダウン症の方は普通よりもずいぶん早く,30歳台,40歳台で高率にアルツハイマー病になりますが,これは正常の1.5倍のAPP遺伝子を持っていて,それだけAβもたくさん産生されることによると思われます.以上のようなことを考え合わせると,脳でAβ全体の産生量が増えるか,または蓄積しやすいAβ42の割合が高まるかするとアルツハイマー病になる,ということが推測されます.
 もう一つの家族性アルツハイマー病遺伝子であるプレセニリン1がアルツハイマー病を引き起こすしくみについても,最近,かなりよくわかってきました.APPを切断してAβを生成するγセクレターゼは,いくつかの蛋白質が集まって複合体を作り働きますが,プレセニリン1はその複合体の中で中心になる蛋白質らしいのです.家族性アルツハイマー病で見出されているプレセニリン1の遺伝子異常はγセクレターゼの働きに影響して,Aβ42の割合を高めます.
 アルツハイマー病の大部分の患者さんはここで述べたような遺伝子異常を持っていません.実際,ほとんどの場合,アルツハイマー病は遺伝しません.その意味では,アルツハイマー病の原因はいまだに不明です.ただ,家族性アルツハイマー病と"遺伝しない"アルツハイマー病は,病気としては非常によく似ている−区別できない−ことが多いのです.ここから「Aβの異常はアルツハイマー病の原因になる」という仮説が出てきます.今日,この仮説はかなり確かであろうと考えられています.そして,家族性アルツハイマー病の良い治療法が見つかれば,それはそのまま,患者さんの大多数を占める非遺伝性のアルツハイマー病にも同じように有効であることも期待されます.そこで,家族性アルツハイマー病の遺伝子異常を持つヒトのAPPやプレセニリン1の遺伝子を組み込んだマウスが作られました.このように遺伝子を人工的に組み込まれたマウスをトランスジェニック(Tg)マウスと呼びます.APP-Tgマウスは老齢になると,ヒトのアルツハイマー病と同じようなAβ沈着が脳に生じます(図11).またAPP-Tgマウスにさらにプレセニリン1の遺伝子異常を組み込んで,APP,プレセニリン両方の遺伝子異常を持つTgマウスを作ると,脳へのAβ沈着がAPP遺伝子単独の時よりも加速されます.こうして今日では,Tgマウスを用いたアルツハイマー病の治療法開発が可能になりました.ただ,これらのTgマウスではAβ沈着,すなわち老人斑を作ることには成功しましたが,神経原線維変化はできませんでした.

第7章 神経原線維変化とタウ
 神経原線維変化もβアミロイドと同じように細い繊維の束でできていますが,神経原線維変化を作っている主要な成分はタウという蛋白質です.タウは細胞の中,特に神経細胞が,別の神経細胞に情報を伝えるために細長く伸ばした突起の中で大切な役割を果たしています.そのタウが神経細胞の中に異常な繊維を作って蓄積したのが神経原線維変化です(図12).神経原線維変化を作っているタウは,正常なタウに比べてリン酸がたくさん結合している(異常リン酸化)ことが知られています.この異常なリン酸化は,タウが正常な機能を失い,細胞の中で繊維性の塊を作ってしまうことの原因ではないかと推測されています.
 タウの異常な蓄積はアルツハイマー病以外の疾患でも起こりますが,それらの疾患の中に,主として大脳の前半分が萎縮して認知症とパーキンソン病類似の症状を起こす遺伝性の病気があります.FTDP-17と呼ばれていますが,1998年にこの病気の原因がタウ遺伝子の異常であることがわかりました.FTDP-17の患者さんの脳の変化は家系によってかなり違いますが,中には神経原線維変化がたまる家系もあります.そこでFTDP-17を起こす異常をもったヒトのタウ遺伝子を組み込んだTgマウスが作られました.このタウ-Tgマウスは老齢になると,大脳よりも少し下の方,間脳とか脳幹と呼ばれる部位に神経原線維変化ができます.さらに,このタウTgマウスと,APP-Tgマウスをかけ合わせて,タウ,APP両方の遺伝子異常を持つTgマウスを作ると,今度はAPPの異常によりAβ沈着が起こる大脳にも神経原線維変化ができるようになります.この研究からわかったことは,マウスの場合,Aβ沈着だけでは神経原線維変化は形成されないこと,そして,タウの遺伝子異常という"神経原線維変化ができやすい背景"があると,タウの異常だけでは神経原線維変化が生じなかった大脳に,Aβ沈着とともに神経原線維変化ができる,ということです.
 少し込み入った話ですが,これはヒトにも当てはまるように思われます.実は,老人斑が全くない高齢者の脳にも少数の神経原線維変化ができます.また,多くのアルツハイマー病の患者さんよりもさらに高齢になってから発病し,進行が遅い認知症を示す,神経原線維変化型認知症という病気があります.この病気は老人斑ができず,神経原線維変化だけができます.これらのことをあわせて考えると,まだそれが何かはわかっていませんが,(おそらく老化と関係して)タウの遺伝子異常と同じように作用する"神経原線維変化ができやすい背景"というものがあり,そこにAβ沈着が加わって神経原線維変化の形成が促進されたものがアルツハイマー病であろう,という推測が成り立ちます.

第8章 アルツハイマー病とαシヌクレイン〜錯綜する脳の病気
 アルツハイマー病の脳に"必ず"蓄積するのは,これまで述べてきましたようにAβとタウです.しかし最近の研究により,アルツハイマー病の患者さんの半数以上で,αシヌクレインという別の蛋白質もたまることがわかってきました(図13).αシヌクレインというのはひとつの神経細胞から別の神経細胞に情報を伝達するしくみである,シナプスという構造で働く蛋白質です.αシヌクレインはパーキンソン病の脳にたまるレヴィー小体の成分でもあります.パーキンソン病とアルツハイマー病の両方の特徴を併せ持つレヴィー小体型認知症という病気がありますが,レヴィー小体型認知症の患者さんの多くに,たくさんの老人斑(Aβの蓄積)と,アルツハイマー病に比べれば少ないけれど正常高齢者よりはとても多い神経原線維変化(タウの蓄積)が認められます.そして,一部のアルツハイマー病の患者さんでは,レヴィー小体型認知症よりは軽いけれども似たような脳内分布でαシヌクレインが蓄積するわけです.
 パーキンソン病として5年,10年と治療を受けているうちに認知症の症状が出てきて,亡くなられた後,病理解剖を受けられた時にはレヴィー小体型認知症であった,あるいは,生前は明らかにアルツハイマー病のような症状だったのが,亡くなられて病理解剖を受けられたら病理診断はレヴィー小体型認知症であった,実は,こういったことが時々起こります.何だかややこしい話になってしまいましたが,これは「診断が難しい」ということよりもむしろ,アルツハイマー病,レヴィー小体型認知症,パーキンソン病はそれぞれ別の病気ではあるけれども,脳の中で進んでいる病気のプロセスには部分的に共通したところがある,ということのようなのです.

第9章 アルツハイマー病の診断
 従来,日本では脳血管性認知症の方が多いと言われていました.しかし,食生活の欧米化や高血圧治療の普及による実際の発病率の変化と,診断精度の向上の両方により,今日ではアルツハイマー病が認知症の原因として最も多い病気であることが明らかになっています.アルツハイマー病の初期症状は,多くの場合,記憶障害です.とりわけ,最近のこと〜数分前までのことを忘れやすいようです.また感情や意欲,人格の変化が早期から見られることもあります.やがて日時や場所がわからないといった症状が出て,家族や周囲の人たちが認知症に気づくきっかけとなります.アルツハイマー病の診断において重要なことは,ほかの原因(病気)による認知症でないかどうかを調べることです.それらの病気の中には,現在でもすでに根本的な治療が可能なものがいくつも含まれているからです.一方,画像診断の技術が進歩して,アルツハイマー病に特徴的な変化をつかまえることができるようになってきました.前述のようにアルツハイマー病では大脳が萎縮します.MRIやCTにより,脳のどの部位が萎縮しているかを正確に調べることができますので(図14),萎縮の分布からピック病など他の認知症疾患と区別することが,ある程度は可能です.また,目に見えて萎縮が生じる前から脳の活動が低下していることが多く,PETやSPECTという機械を使って脳の活動性の分布を調べることも診断の役に立ちます.アルツハイマー病では頭頂葉から側頭葉にかけての活動低下が目立つとされています(図15).そのほか,まだ一般的ではありませんが,背骨に細い針を刺して脊髄液を採取し,脊髄液中のAβとタウの濃度を測るとかなりの精度でアルツハイマー病かどうかがわかると言われています.
 こうしてアルツハイマー病と診断されたら,脳で欠乏しているアセチルコリンを増加させるために,アセチルコリンが分解されにくくなる薬剤を服用します.薬の効果は患者さんにより様々ですが,かなりの割合で記憶力や意欲などが改善するとされています.ただアセチルコリンを増やすだけでは,アルツハイマー病の脳病変の進行そのものを遅らせたり止めたりすることはできません.次に,アルツハイマー病治療薬の研究開発が今どのように進められているかを紹介します.

第10章 アルツハイマー病の治療薬開発
 現在,開発が進められているアルツハイマー病の治療薬は,脳における病変の進行を止めることを目的としています.家族性アルツハイマー病の遺伝子異常がAβ,とりわけ脳に蓄積しやすいAβ42を増加させてアルツハイマー病の原因となることがわかりましたから,大多数を占める遺伝しないアルツハイマー病ではまだ原因は不明ですが,やはり何らかの理由によりAβが引き金を引いているであろう,と推測されています.これをアルツハイマー病のAβ仮説と呼びます.老人斑をよく観察すると,Aβ沈着以外にもいくつかの要素が認められます(図16).老人斑という病変に巻き込まれた形の神経細胞の突起の中には,神経原線維変化と同じようにタウがたまっています.これは,ヒトの脳でも,APP+タウTgマウスと同じようにAβがタウの異常な蓄積を促進することの証拠と考えられます.Aβ仮説はまだ完全に証明されたわけではなく,未だに「仮説」ではありますが,これに基づいてアルツハイマー病の治療薬開発を進めてもいいと思われるくらいに確かな「仮説」と考えられています.
 また老人斑では,ミクログリア,アストログリアと呼ばれる,神経細胞とは異なる細胞(グリア細胞)が,Aβ沈着に取りついたり,取り囲んだりしているのが目につきます(図16).実はこれらのグリア細胞は,Aβを取り除こうと努力しているようなのです.しかし,Aβは次から次へと産生され蓄積し続けるために,これらグリア細胞の努力は普通の状態では成功しません.だからアルツハイマー病の患者さんには老人斑がたくさんできてしまうわけです.しかし特殊な状況により,このグリア細胞の活動性が高まることがあります.たとえばアルツハイマー病の患者さんが軽い脳梗塞を合併したりすると,脳梗塞の部分は壊死してしまいますが,その周辺の健常な脳が残っている部位ではグリア細胞,とりわけミクログリアという清掃屋の細胞の働きが亢進します.そのような部位では,ミクログリアがAβを取り除くことに成功して老人斑が消失する場合があります.
 そこで,このミクログリアの働きを高めようという治療が1999年に開発されました.Aβワクチンと言って,Aβに対する抗体を作らせる治療法です.Aβに対する抗体ができると,それが老人斑のAβ沈着にくっつき,そのことがミクログリアによるAβ清掃作業の効率を高めます.この治療は,Aβが脳にたまるAPP-Tgマウスでは非常にうまくいきました.しかし,2001年に数百名のアルツハイマー病患者さんが参加して欧米で始まった治験では,約6%の患者さんに合併症として髄膜脳炎が発生してしまい,2002年初頭にその治験は中止されました.このAβワクチンに伴う髄膜脳炎はAPP-Tgマウスでは起こらない,という点が研究を難しくしていますが,今日,髄膜脳炎を起こしにくいと推測される新しいワクチンが幾種類か開発されて,その一部はすでにアメリカで治験が始まっています.また,ワクチンをうつのではなく,遺伝子工学で大量生産したAβの抗体そのものを注射することで髄膜脳炎の合併を回避する治験も進められています.
 このように,老人斑におけるグリア細胞の働きを高める方法が開発されているわけですが,この治療戦略は実は両刃の剣でもあります.老人斑でAβを取り除こうというグリア細胞の努力は,多かれ少なかれ炎症反応を起こしています.脳という組織は,体のほかの組織に比べて炎症反応に弱いという性質を持っています.この老人斑で生じる炎症反応は,アルツハイマー病で神経細胞が障害されるメカニズムのひとつとも考えられています.実際,疫学調査では,非ステロイド系抗炎症剤(NSAIDs)を長期間にわたって大量に服薬している慢性関節リウマチの患者さんにはアルツハイマー病の発生が少ないことが明らかにされています.そこで2000年頃,NSAIDsをAPP-Tgマウスに長期間飲ませる実験をした人達がいます.そうしましたところ,意外なことに脳のAβ沈着が減ったのです.今日では,NSAIDsの一部はAβを産生するγセクレターゼに作用して,脳に蓄積しやすいAβ42の割合を下げることがわかっています.NSAIDsに属する薬剤はたくさんありますが,このような作用があるもの,ないものがあります.このNSAIDsのAβ沈着を抑制する作用は,抗炎症作用や,胃潰瘍を起こす副作用とは全く別のしくみによって生じます.そこで,胃潰瘍を起こす作用がなく(したがって抗炎症作用もありません),Aβ沈着を抑制する作用だけをもつ薬剤の開発が進められていて,中にはすでに治験が始められているものもあります.
 ここで紹介しましたAβワクチンやNSAIDsのほかにも,Aβの産生を抑制したり,あるいは分解を促進したり,またタウのリン酸化を抑制して蓄積しにくくしたり,といった様々な視点からアルツハイマー病の進行を止めようという治療法が研究されています.それほど遠くない将来に,早期発見・早期治療をすればアルツハイマー病は恐れなくても良い,そんな時代がくることが期待されます.

第11章 おわりに
 アポリポ蛋白質E(ApoE)の項で,アルツハイマー病になりやすい「危険因子」のことをお書きしました.これまでのところ,ApoE以外には,十分な科学的根拠がある,アルツハイマー病に「なりやすい因子」,また逆に「なりにくい因子(予防法)」というのはどちらも見出されていません.以前,アルミニウムの摂取がアルツハイマー病の原因になるかもしれないと言われたことがありますが,これは今日では否定されています.透析脳症と言って,人工透析の技術が未熟だった時代に,透析患者さんの一部で血液中のアルミニウム濃度が高くなってしまう合併症が多発したことがあります.この透析脳症の患者さんの脳で老人斑や神経原線維変化の数が丹念に調べられましたが,同年齢の正常対照者と比べて差は見出されませんでした.また,高コレステロール血症などの動脈硬化を促進する因子がアルツハイマー病も起こしやすくする,という説があります.この説については,現在さかんに研究が行われていて,結論が出るのはもう少し先になりそうです.
 また予防という観点から,ひとつだけ,最近のAPP-Tgマウスを使った動物実験についてご紹介しておきます.実験用のマウスは普通,あまり広くないケージの中で飼育されています.APP-Tgマウスを,トンネルを設置したりおもちゃをたくさん入れたりした広いケージで飼育し,たくさん運動をさせて飼育すると,普通の(運動不足の)APP-Tgマウスよりも老人斑の数が少ない,という研究結果が報告されています.あくまでもマウスの話ですので,ヒトのアルツハイマー病ではどうか,ということはこれから検討していかなくてはなりませんが,高血圧や動脈硬化,糖尿病などの予防も兼ねて日常生活に運動を取り入れるのは,いろいろなメリットがありそうです.