第1章 Pick病の歴史と概念の変遷
本章ではPick病についての歴史・概念の変遷(文献1)について取り上げます。
Pick病は、1892年Prag(プラハ、 現在はチェコスロバキアの首都)のドイツ人大学の精神科教授であったArnold Pick が記載・報告した老年期痴呆の患者さん(August H, 死亡時71歳男性、69歳時"言語障害"で発症し、その後人格変化・異常行動が出現し、発症約2年後入院。入院時超皮質性感覚失語と記憶障害が認められ、入院16日後死亡。解剖され、肉眼的に左側側頭葉の萎縮が認められた)の報告(文献2)を嚆矢とする比較的稀で特異な痴呆を主徴とする神経変性疾患です。
本疾患を初めてPick病と命名したのは1926年大成 (Onari)[日本人、満州医大・精神科教授] とSpatz [ドイツの神経病理学者] であり、以前は本疾患の病理組織学的特徴のひとつとされてきましたが、近年ではPick病の病理組織学的診断に必須とされているPick球(嗜銀性神経細胞内封入体)は、1911年Alois Alzheimer [ドイツの医学者、今日アルツハイマー病として知られている疾患を1907年、最初に記載・報告した] により記載されました(文献3)。従来Pick病の病理診断基準については種々の議論があり、主として北米(アメリカ・カナダ)の神経病理学者はPick病の診断基準として大脳皮質の限局性萎縮、神経細胞脱落とグリオーシス、Pick球、腫脹神経細胞 (Ballooned neuron) の存在を必須としましたが、ヨーロッパ(特にドイツ)や日本の神経病理学者はPick球の存在を重視しませんでした。しかし現在では、Pick病の病理診断基準として大多数の神経病理学者は組織学的にPick球を有するもののみをPick病と診断するようになってきています。なおPick病の臨床診断についても歴史的に議論があり、1970〜1980年代の北米では、臨床的にはPick病とアルツハイマー型痴呆の分類は困難であるというのが定説でした。
第2章 Pick病の臨床像
本章ではPick病の臨床症状(文献4)について取り上げます。
Pick病は、現在痴呆性疾患の代名詞ともされるアルツハイマー病と異なり、記銘・記憶力、地誌的失見当識は比較的保たれています。またPick病の頻度は、現在では狭義の意味でのPick病(Pick球を有するPick病)は全痴呆患者の0.4−2 % にすぎないことが知られています(文献3)。
Pick病に認められる臨床像としては、行動障害・感情障害・言語障害があります。行動障害としては、自己に対する関心(personal awareness)の早期消失により、自己の衛生・整容の無視がみられ、また社会に対する関心(social awareness)の早期消失により、社会性の消失を示し、さらに万引きのような軽犯罪を重ねたり、また早期からの脱抑制徴候として、抑制のきかない性衝動・暴力行為・場にそぐわないふざけ・落ち着きの無い歩調がみられ、常同的行動・保続的行動として、周遊行動、化粧・身支度などへの儀式的没頭を示すことがあります。感情障害として、抑うつ、不安、過度の感傷、希死念慮と執着観念、妄想、無頓着(感情面の無関心とよそよそしさ、感情移入や共感の欠如、感情鈍麻)、無表情(不活発、自発性低下)などが認められ、また言語障害として、進行性の発語量の減少(自発語の減少、節約的発語)、常同言語(限られた種類の語、句、テーマの繰り返し)、反響言語と保続、後期の無言症が認められます。なお一般的には除外診断的特徴として、早期からの重篤な健忘、早期からの空間的失見当識、早期からの重篤な失行がよく知られています。
第3章 Pick病の病理像
- 脳の肉眼所見
Pick病では、通例側頭・前頭葉の前方部が萎縮すると従来主張されてきましたが、必ずしもこの原則があてはまらないことが我々の研究(文献3)によって解明されてきました。我々は2001年にPick病としては非定型的な臨床像を呈した6剖検例 (全例Pick球を有するPick病) で、大脳半球・両球標本を使用し、大脳皮質病変を高度・中等度・軽度に分類し、顕微鏡下で検討し、発語失行を初発症状とした2例では中心前回に高度病変が存在し、また従来Pick病では"萎縮中心"とみなされていない中心後回を含む頭頂葉に、3例で高度病変が存在することを明記しました(文献3)。また最近、我々は肉眼的にもPick球を有するPick病の中心前回に、限局性萎縮が存在する事(図1)を指摘しました(文献5)。
- 組織学的所見
本疾患では、組織学的には大脳皮質で神経細胞脱落とグリオーシス、腫脹神経細胞(Ballooned neuron)(図2)・Pick球(図3)の広汎な出現を認めますが、さらに線条体(尾状核・被殻)・淡蒼球・扁桃核にも病変が認められ、その病変分布は扁桃核病変は高度から中等度、線条体病変は中等度から軽度、淡蒼球病変は軽度であることも我々の研究(文献6)によって解明されています。
第4章 最近の研究の進歩
本章ではPick病に関する最近の研究の進歩について取り上げます。
2001年我々は(文献3)、神経病理学的に確認されたPick球を有するPick病の症例が、初発症状として発語失行、うつ状態、さらに記憶・記銘力低下というアルツハイマー病類似症状などを示すことを指摘し、その臨床・病理相関という観点では、発語失行、うつ状態、記憶・記銘力低下と失見当識が、各症例の大脳皮質病変分布とある程度対応していることを明確にしました。即ち発語失行を初発症状とした2剖検例では高度病変(大脳皮質全層にわたる著明な神経細胞脱落とそれを反映した大脳白質の著明なグリオーシス)が、Pick病では従来"萎縮中心"とされていない中心前回に存在すること、またうつ状態を主徴とした剖検例では、従来前頭葉眼窩面に比して病変が比較的経度とされている前頭葉穹窿面に高度病変が斑状に存在することを明記しました。
また2004年Pick球を有するPick病20剖検例を含む前頭側頭型痴呆61剖検例を臨床病理学的に検討したイギリスのHodgeら(文献7)は、進行性非流暢性失語はPick球を有するPick病が一番多く、さらに61剖検例中著明な記憶障害を示した5例中2例はPick球を有するPick病であったという注目すべき報告をしました。
さらに最近我々は、Pick球を有するPick病16剖検例で、16例中15例 (94%) で中心前回Betz細胞脱落を、また8例(50%)で中心前回X層のグリオーシス、7例(44%)で中心前回X層のPick球・腫脹神経細胞(Ballooned neuron)出現、延髄錐体路変性を検索しえた15例全例で確認しました(文献5)。上記の所見は、Pick球を有するPick病では通例中心前回は保たれるという従来の定説は誤謬であることを明確にした知見です。
文献
- 土谷邦秋:Pick病の歴史と概念の変遷。神経内科50: 321-328, 1999
- Pick A. : Ueber die Beziehungen der senile Hirnatrophie zur Aphasie. Prag. Med. Wochenschr., 17: 165-167, 1892
- Tsuchiya K. et al. : Distribution of cerebral cortical lesions in Pick's disease with Pick bodies : a clinicopathological study of six autopsy cases showing unusual clinical presentations. Acta Neuropathol. 102: 553-571, 2001
- 土谷邦秋:前頭側頭型痴呆の臨床的特徴。Clin Neurosci 23: 262-265, 2005
- Tsuchiya K. et al. : Pathological heterogeneity of the precentral gyrus in Pick's disease : a study of 16 autopsy cases. Acta Neuropathol 112: 29-42, 2006
- Tsuchiya K. et al. : Distribution of basal ganglia lesions in Pick's disease with Pick bodies : a topographic neuropathologic study of eight autopsy cases. Neuropathology 19: 370-379, 1999
- Hodge JR. et al. : Clinicopathological correlates in frontotemporal dementia. Ann Neurol 56: 339-406, 2004
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