中枢神経系の感染症(ウイルス感染症の病理)
2010年7月
大阪赤十字病院 病理部
新宅雅幸
第1章 はじめに
 中枢神経系(脳と脊髄)には種々様々な感染症が起こります。それらをその原因となる病原微生物の種類によって大別すると、細菌(バクテリア)によるもの、真菌(カビ)によるもの、原虫(アメーバやトキソプラズマ、マラリアなど)によるもの、そしてここで解説するウイルス (virus) によるものの4つに分けることができます。寄生虫も加えれば5つになりますが、我が国では寄生虫による中枢神経系の感染症はごく稀です。
 ウイルスは、細菌や真菌など他の微生物とは異なって、DNA、RNA のいずれか片方の核酸しか持っておらず、単独でエネルギーを産生したり、自己を複製したりすることができません。そのためウイルスは宿主の細胞内に寄生(即ち感染)し、その細胞の核酸を利用して自己複製を行なうという生活様式を取ります。ウイルスによる脳(以下、便宜上脊髄もこの言葉の中に含めることとします)の感染症には日本脳炎、小児麻痺(ポリオ)、狂犬病など、古くからよく知られた病気が多くあります。しかし最近では公衆衛生の向上や予防接種の発達などの理由で、これらの病気は日本では殆ど目にすることがなくなりました。それに代わって現在注目を浴びているのがエイズウイルスによる脳炎(HIV 脳炎)です。また健康人には病変を起こさない弱毒性の病原微生物が免疫能力の衰えた人などに病変を起こしてくる、いわゆる「日和見感染症」と称される疾患群の中にもウイルスによるものがあり、様々の血液疾患、免疫不全症、臓器移植などの合併症として大きな問題になっています。さらに、日本では未だ見つかってはいませんが、現在アフリカや米国などで患者が発生している西ナイルウイルス (West Nile virus) による脳炎などが、将来日本に「輸入感染症」として持ち込まれる可能性もあります。
 脳のウイルス感染症には沢山の種類があり、それらのすべてに解説を加えていくと膨大なものになりますので、ここでは比較的頻度が高く、重要な病気についてのみ説明しますが、その前に脳のウイルス感染症について一般的なことを少し述べておきます。

第2章 ウイルスはどこから脳に入るのか
 ウイルスが脳に入るには、いくつかのルートが知られています。その中で最も多いのは血液を通じて入るルートです。消化管や気道などを侵入門戸として、あるいは蚊など節足動物に媒介されて体内に入ったウイルスは、多くの場合血液中に入り込んで体内を循環し(この状態をウイルス血症 viremia と言います)、その過程で脳にも侵入して行きます。その他のルートとして、末梢神経線維を伝わって侵入するルート(狂犬病などがこの経路を取ります)や、鼻の粘膜から嗅神経を経て脳に入るルートが知られています。エイズウイルスの場合は少し特殊で、ウイルスが白血球の一種である単球の中に入り込み、それによって様々な免疫学的な監視の目を巧妙にすり抜けながら、脳の中に運ばれていきます。
  一般に病原微生物がヒトの体内に入ると、「免疫反応」が働いて、それを体外に排除したり殺そうとしたりします。この免疫反応を含む病原微生物に対する生体の一連の反応過程を「炎症」と呼んでいますが、その微生物がウイルスであり、炎症反応が脳を主な舞台として起こった場合、それを「ウイルス脳炎」と呼びます。ウイルスが細胞に寄生あるいは感染する場合、細胞の種類をあまり選り好みせず、種々の細胞に無差別的に感染するウイルスもありますが、中には神経細胞やグリア細胞など、脳内の細胞に特に親和性を有するウイルスもあります。

第3章 ウイルス脳炎の臨床
 神経病理学会のホームページですので、臨床的なことの記載は最小限に止めさせて頂きます。脳に生じるウイルス感染症の多くは急激に発病し、急性の経過を取ることが多いのですが、HIV 脳炎(エイズ脳症)や「日和見感染症」として起こる脳炎、さらに亜急性硬化性全脳炎などでは、しばしば亜急性もしくは慢性の経過をたどります。どちらの場合も発熱や頭痛、嘔吐、様々な程度の意識障害、けいれん発作といった一般的な神経症状に加えて、運動障害、知覚障害、言語機能の障害など、脳炎によって破壊される脳の部位に応じて様々の局所症状(「巣症状」と言います)が出てくるのが通例です。これらの症状の多くは、ウイルスそのものによって惹き起こされるというよりも、ウイルスに対する宿主側の免疫反応、炎症反応の結果として起こるものです。ウイルス感染症に有効な薬剤は現在のところまだ数少いので、多くのウイルス脳炎が不幸な転帰を取ったり、治癒しても後に重大な後遺症を残したりしますが、新しい治療法の開発がおそらく今後急速に進むものと思われます。

第4章 ウイルス脳炎の病理(総論)
 脳に感染を起こすウイルスには多くの種類がありますが、それぞれに対する脳組織の反応には共通した点が多く見られますので、まずそれについて簡単に述べます。

  1. 脳の肉眼所見
     ウイルス脳炎のため不幸にして亡くなられた患者さんの脳を見ても、血管が拡張、充血し、脳が全体として腫れている(「脳浮腫」と言います)以外に、肉眼的にあまり著明な変化を認めないことが多いのです。単純ヘルペスウイルスの感染による急性ヘルペス脳炎では、前頭葉、側頭葉などに強い出血や「壊死」(組織や細胞の一部が死ぬこと)を見ることがあります。またサイトメガロウイルスによる脳炎では、ウイルスが脳室(脳の内部にいくつか存在する比較的広い空間で、髄液により満たされています)の表面を被覆している上衣細胞という細胞に感染し、脳室の表面がただれたように見える場合があります。

  2. 脳の組織学的所見
     脳組織を顕微鏡で調べてみると、ウイルス脳炎を起こした脳には様々な病変が認められます。それらの病変の多くは、いろいろなウイルス感染症に共通した変化であり、顕微鏡で見た所見だけから原因ウイルスが何であるかを特定するのは通常困難です。但しある種のウイルスではかなり特徴的な顕微鏡所見が見られ、それを見ただけで原因ウイルスを推定することが可能です。
      病変は、脳や脊髄の表面を包んでいる薄い膜である髄膜、脳の表層部にあって神経細胞やグリア細胞が高密度に存在する灰白質、脳の深部にあって主に神経線維から成る白質に起こります。ウイルス脳炎ではこれら3つの部位のいずれもが病変を起こしますが、そのうちでどこが特に強く侵されるかは、それぞれのウイルスにより多少特徴があります。例えば、小児麻痺(ポリオ)や単純ヘルペス脳炎、日本脳炎、狂犬病などでは病変は灰白質を主体として起こり、他方、JC ウイルスの感染症である進行性多巣性白質脳症などでは白質が好んで侵されます。
      多くのウイルス脳炎において最も特徴的に認められる脳の病理学的変化は、多数のリンパ球が小さな血管を取り囲むように見られることです(図1)。これは「血管周囲性リンパ球浸潤」と呼ばれ、本来血液の中に存在するリンパ球が動員されて、血管周囲腔に滲み出してきた状態であり、ウイルスに対する生体の防御反応、免疫反応の現われです。病変の強い部位では血管周囲腔を越えて脳実質内にまでリンパ球の浸潤が及びます。このような像を顕微鏡下に認めた場合、病理学者は病変を「炎症」と判断し、ウイルス感染の可能性を第一に考えてその後の検索を進めて行きます。もっともこの「血管周囲性リンパ球浸潤」自体は非特異的な変化であり、ウイルス感染以外の疾患でも起こり得ます。リンパ球浸潤は脳の周囲を取り囲む腔である蜘蛛膜下腔にも見られ、このような変化を「(無菌性)髄膜炎」と呼びます。リンパ球以外に、マクロファージ(大食細胞)やミクログリア(小膠細胞)と呼ばれる大型細胞も病変部に出現してきます。これらの細胞は、「清掃細胞」(scavenger cell) という別名もあるように、ウイルスそのものや壊死に陥った細胞などを活発に「貪食」(細胞内に様々の物質を取り込んで分解、消化すること)して処理する他に、ウイルス抗原をリンパ球に向けて提示するなど、免疫反応に重要な働きをします。浸潤してきたマクロファージやミクログリアは、時に小さな細胞集団を形成し、これを「グリア結節」と呼びます(図2)。
      神経細胞やその間を埋めるように存在するグリア細胞にウイルスが感染すると、これらの細胞は壊死に陥り、消失していきます。壊死に陥った神経細胞がマクロファージに取り囲まれ、消化、分解されていく像(「神経細胞貪食」)もウイルス脳炎ではしばしば認められます(図3)。壊死に陥った細胞が消失した後には、その跡を修復する役割を持つアストロサイト(星状膠細胞)という一種のグリア細胞が増殖して、大量のグリア線維を形成します(図2)。この現象を「アストロサイトーシス」あるいは「グリオーシス(膠症)」と呼び、脳組織における一種の「瘢痕」(「傷跡」のこと)形成に相当します。脳組織は全身の他の組織と異なって再生能力が乏しいので、脳炎はたとえ治癒してもしばしば重大な後遺症を残します。   また神経細胞の突起である軸索は、その多くのものが「髄鞘」と呼ばれる脂質から成る重層化した薄い膜により包まれています。中枢神経系において髄鞘を形成する細胞はオリゴデンドログリア(稀突起膠細胞)と呼ばれるグリア細胞の一種ですが、ウイルスがオリゴデンドログリアに感染すると、グリア細胞の壊死とそれに伴う髄鞘の脱落(「脱髄」と言います)を招くことになります。 ある種のウイルス脳炎では、神経細胞やグリア細胞の核や細胞質内に、「封入体」と呼ばれる特殊な構造物が形成されることがあります(図3,4,5)。この封入体の中には、電子顕微鏡(電顕)で見ますと、多くの場合大量のウイルス粒子が含まれており、ウイルス脳炎の診断に決定的な助けになります。狂犬病のときに見られる神経細胞の細胞質内封入体である「ネグリ小体」が有名ですが、その他に単純ヘルペス脳炎などでは、神経細胞やグリア細胞の核内に好酸性に染まる(酸性色素で赤く染め出されること)「コードリーA型 (Cowdry type A)」と呼ばれる封入体が出現します(図4)。

第5章 ウイルス脳炎の病理(各論)
  1. 単純ヘルペス脳炎
     1型単純ヘルペスウイルス (herpes simplex virus 1) の感染により生じる脳炎で、(流行性でない)散発性急性脳炎の代表的なものです。大体毎年人口25〜50万人あたり1人くらいの割合で発生すると言われています。このウイルスはしばしば口唇に水疱を形成してくるありふれたウイルスですが、口唇ヘルペスとヘルペス脳炎との合併は殆どありません。ウイルスは通常経口的に感染すると考えられており、体内に入ったウイルスは多くの場合三叉神経節内に潜伏します。体内に潜伏したウイルスがどのような経路で脳内に入り、脳炎を起こすかについては、いくつかの説があり、確定していません。鼻の奥の嗅神経からウイルスが侵入して脳炎を起こす可能性も考えられています。
     単純ヘルペス脳炎は若い人に多く発生し、臨床的には典型的な急性発症の脳炎の経過をたどります。近年では早期診断と抗ウイルス薬を用いての治療が進歩したため、昔に比べて予後ははるかに改善されていますが、それでも死亡率は約20%と言われています(死亡する患者の多くは乳幼児です)。病理学的には前頭葉の底面や側頭葉に強い出血と壊死を起こしてくることが特徴ですが、治療の進歩により、このように定型的な出血、壊死を起こした症例に遭遇する機会は少なくなっています。組織学的には、出血、壊死に加えて、血管周囲性リンパ球浸潤と神経細胞核内のコードリーA型封入体の出現が見られます。病変の分布は、いわゆる「大脳辺縁系」(乳頭体、帯状回、海馬などを中心とする領域で、情動、記憶などに深い関係を有する部位です)と呼ばれる部位を中心としています。

  2. 水痘・帯状疱疹ウイルス脳炎
     水痘・帯状疱疹ウイルス (varicella-zoster virus) による脳炎です。このウイルスは水痘(水ぼうそう)の原因ウイルスですが、いったん感染するとほぼ一生のあいだ体内(主に神経節内)に潜伏し、抵抗力が衰えたりすると帯状疱疹や脳炎を起こしてきます。近年ではエイズ患者に合併する本ウイルスによる脳炎が問題になっています。通常のウイルス脳炎像に加えて、しばしば動脈の壁に強い炎症が見られるのが特徴であり、感染した細胞には好酸性のコードリーA型核内封入体を認めます(図4

  3. サイトメガロウイルス脳炎
     サイトメガロウイルス (cytomegalovirus) はありふれたウイルスで、殆どの人が小児期に無症状のうちに感染してしまっています(「不顕性感染」と言います)。いったん体内に入ったウイルスは骨髄組織などの中に潜伏、寄生を続け、言わばヒトと共存状態にあるわけですが、エイズや臓器移植の後など種々の原因で免疫力が衰えますと急激に増殖して全身に拡がり、様々な臓器に障害を惹き起こします。このような現象を「日和見感染症 (opportunistic infection)」と言いますが、サイトメガロウイルスはその代表的なものです。病理学的には感染した細胞が腫大し、核内、細胞質内に大きな封入体を形成することが特徴で、「サイトメガロ」の名称はそこから由来しています(図3,5)。多くの場合、顕微鏡で見れば診断は一見して可能です。脳の諸所にグリア結節を形成する他に、脳室の表面を被う上衣細胞に特に強い感染を起こすことがあります。どちらかと言えば弱毒性のウイルスであり、ウイルスによる組織の破壊や、それに伴うリンパ球など炎症性細胞の浸潤は一般に比較的微弱です。サイトメガロウイルスは胎盤を通じて母体から胎児にも感染を起こすことがあり、感染した胎児の5〜15%に脳の発育不全や奇形、脳室周囲のカルシウム沈着などが生じます。

  4. 急性脊髄前角灰白質炎(ポリオ、小児麻痺)
     ポリオウイルス (poliovirus) による古典的な感染症で、通常は幼児期に感染が起こります。生ワクチン投与の普及により、日本では近年、新規の発生は殆ど見られていません。ウイルスは腸管粘膜から体内に入って神経細胞とくに運動神経細胞を選択的に侵します。病変の主体は脊髄とくに腰髄にあり、脊髄前角細胞(代表的な運動神経細胞の一つ)が壊死に陥って脱落し、それに伴ってその前角細胞の支配を受けている筋肉も二次的に萎縮するため、とくに下肢の運動機能障害を永く残します。病理学的には、急性期では典型的なウイルス脳炎の像を示し、血管周囲性リンパ球浸潤や神経細胞貪食が強く認められます。封入体の形成は見られません。

  5. 狂犬病
     狂犬病 (rabies) は日本国内ではほぼ50年間、新規の発生がありませんが、米国や中南米、中国、東南アジア、アフリカ諸国では今でもかなりの数の発生が報告されています。近年我が国でも、海外で犬に咬まれた人が帰国後発症したという例が相次いで報告され、大きな問題になりました。自然界では、イヌの他にキツネ、コウモリ、アライグマなどに感染が見られています。海外との人的交流やペットの輸入がますます盛んになっている時代ですので、今後我が国においても発生する可能性が憂慮されます。狂犬病は、動物の咬傷から入ったウイルスが筋肉の中で増殖し、それが神経線維を伝わって脊髄、脳に入り、炎症を起こします。咬まれてから発病までの潜伏期が長い(多くの例で30〜90日)ことが特徴で、この潜伏期間中に抗血清を投与することにより、発病を防ぐことが可能です。しかし、いったん発病しますと治療法が無く、短期間でほぼ100%死に至ります。病理学的には、感染した神経細胞の細胞質内に「ネグリ小体 (Negri body)」という好酸性の比較的大きな封入体が形成されることが特徴で、この中には多数のウイルス粒子が電顕的に証明されます。血管周囲性リンパ球浸潤は軽度にとどまります。

  6. HIV 脳炎(エイズ脳症)
     よく知られているように、エイズは 1981 年に始めて発見され、その後短期間で世界中に爆発的に拡がりました(WHO による推計では、2000 年の時点で世界中に約六千万人の感染者がいます)。それでも近年先進国においては徐々に発生例が減少しつつあるのですが、残念なことに日本は、エイズ患者の新規発生例が今でも年々少しずつ増加を続けている唯一の先進国です。エイズでは免疫能が高度に障害されますので、全身的に様々の日和見感染症が合併してきますが、その他にエイズウイルス (レトロウイルスの一種であるヒト免疫不全ウイルス human immunodeficiency virus, HIV) そのものによっても脳炎が生じることが明らかにされており、HIV 脳炎はウイルス脳炎の中で今や最も頻度の高いものの一つとなっています。臨床的には亜急性〜慢性の経過をたどる脳炎で、様々な程度の意識障害や認知症の症状に加えて種々の運動障害を呈します。エイズ患者には様々な日和見感染症が合併しますので、脳炎が見られた場合、それが日和見感染症によるものかあるいは HIV そのものによる脳炎かの判定は、臨床的にはかなり困難です。病理学的には、エイズで亡くなった人を解剖して調べてみると、その約3割に明らかな HIV 脳炎の所見が見られると言われていますが、ごく微妙な変化しか見られず、臨床的にもごく軽い認知症、運動障害しか示さないような人までも含めると、HIV 脳炎の頻度はもっと高くなります。HIV はリンパ球とマクロファージに感染するウイルスであり、これら感染細胞から様々な液性因子が放出されることにより脳組織が損傷を受けると考えられていますが、HIV そのものによる神経細胞の直接的な損傷も生じることが知られており、特にこの点については現在精力的に研究が続けられているところです。HIV 脳炎の特徴は、多数の神経線維が走行している大脳白質に病変が強く見られることで、他の脳炎では余り見られない多核巨細胞(HIV に感染したマクロファージの融合により生じると考えられています)が血管周囲に多数出現することが本疾患に特徴的な像です(図6)。また脊髄では空胞性脊髄症といって、神経線維内に多数の小さな空胞を形成する病態が見られます。エイズの予後は、1995 年以降 HAART (highly active anti-retroviral therapy) という革新的な治療法が導入されて、劇的に改善し、現在エイズは(先進諸国においては)短期間で死に至る疾患から生涯持続する慢性感染症へと変貌しつつあります。

  7. HTLV-I 関連脊髄症 (HTLV-I-associated myelopathy, HAM)
     HAM (通常「ハム」と読みます)は HIV と同じレトロウイルスの一種である human T lymphotropic virus-I (HTLV-I) により引き起こされる感染症です。このウイルスは HAM の他に成人T細胞白血病という血液疾患の原因となることで有名ですが、両疾患が同一の患者に見られることはごく稀です。日本の西南部(九州、沖縄、四国)と中米のカリブ海沿岸地域に多くの患者の発生が見られるという特徴的な地理的分布を示し、本疾患の発見と病態の解明には日本人学者が大きな貢献をしました。本ウイルスの感染者の世界地理的分布から日本人のルーツを探るという研究もなされています。このウイルスに感染しても、HAM もしくは成人T細胞白血病を発症するのは1%以下であり、殆どの人は無症状のまま一生を終えます。HAM では病変は脊髄とくに胸髄下部に強く見られ(図7)、臨床的には両側下肢の麻痺を主徴とし、非常に長い慢性経過をたどりますが、生命的予後は比較的良好です。病理学的には通常のウイルス感染症の像を示し、神経細胞の壊死とリンパ球、マクロファージの浸潤、アストロサイトの反応性増殖を強く認めます(図8)。

  8. 亜急性硬化性全脳炎 (subacute sclerosing panencephalitis, SSPE)
     麻疹(はしか)の原因となるウイルス (measles virus) が、稀に重篤な脳炎を引き起こすことがあり、亜急性硬化性全脳炎と呼ばれています。その発病には麻疹ウイルスのゲノムの変異が関与すると言われています。麻疹に感染して数年から十年程経ってから脳炎を起こしてきますので、「スローウイルス感染症 (slow virus infection)」という言葉が用いられることもあります。5歳から15歳にかけて発病することが多く、通常のウイルス脳炎とは異なって知能障害や性格変化、行動異常などで徐々に発病し、数週間から半年くらいのゆっくりした経過をたどることが特徴です。経過中に「ミオクローヌス」と呼ばれる一種の不随意運動を見ることもあります。病理学的に、とくに経過の長い例では、脳が全体に萎縮して小さくなり、また硬くなります。脳が硬くなるのは、灰白質の神経細胞さらに白質の神経線維が広範囲に脱落、消失し、それに代わってアストロサイトが増殖して多量のグリア線維を作り、瘢痕を形成するためです(図9)。小血管周囲にリンパ球やマクロファージの浸潤が見られ、残存した神経細胞やグリア細胞の核内には好酸性のコードリーA型封入体が認められます。

  9. 進行性多巣性白質脳症 (progressive multifocal leukoencephalopathy, PML)
     パポバウイルス (papova virus) の一種である JC ウイルス (JC は最初にこのウイルスが発見された患者さんの頭文字) により惹き起こされる慢性の脳炎です。JC ウイルスは、サイトメガロウイルスなどと同様に大半の成人が自覚症状が何もないままに不顕性感染を起こしているウイルスで、様々の原因により免疫能が低下すると、体内で休眠していたウイルスが増殖を開始して重篤な脳炎を起こしてきます。PML はかつては比較的珍しい疾患であったのですが、エイズに本疾患がしばしば(と言っても5%以下ですが)合併するため、エイズの爆発的蔓延に伴って、ありふれた疾患となりました。臨床的には比較的緩徐な経過を取りますが、多くの場合、半年ほどで死に至ります。病変は脳の深部にあって神経線維が走行している白質に多発性に生じます(図10)。正常では白く見える白質が、病変部では灰白色調に変色し、ときにゼラチン様となります。JC ウイルスは髄鞘形成細胞であるオリゴデンドログリアに主に感染するため、髄鞘が失われて脱髄を起こします。病変部ではオリゴデンドログリアの核が腫大して、その中に塩基性色素で紫色に染まる封入体が見られることが特徴です(図11)。電顕で見るとこの封入体の中にはウイルス粒子が充満しています。またアストロサイトの核が腫大して奇怪な形を呈することもよくあります。リンパ球の浸潤は殆ど見られないのが普通です。なお JC ウイルスをハムスターの脳内に接種すると、高率に脳腫瘍が発生することが知られていますが、ヒトの脳腫瘍の発生にこのウイルスがどの程度関与しているかは未だ不明です。